齋藤茂吉は昭和21年1月30日から22年11月3日まで1年10ヵ月を大石田(二藤部兵右衛門家のはなれ「聴禽書屋(ちょうきんしょおく)」)で過ごしています。この歌は、昭和20年8月26日に能登屋旅館に泊まり翌日、田中家の別荘(そば処滝見館の滝側)で一休みした後に出かけて詠んだ歌です。文殊谷とは、滝附近のことを言ったようです。銀が産出した時代の活気ある賑やかさを表現したようです。歌集『白き山』にも載せられています。
蝉のこゑ ひヾかうころに 文殊谷 吾もわたりて 古へおもほゆ
意味・・・蝉の声が心に響いてくる頃に文殊谷を渡ったら、かつて大盛りといわれ大量の銀を産出した頃が浮かんできます。 |
|
田中豊氏は、遠く長崎に蘭学を学び、西洋医学を身につけ故郷に錦を飾って帰ってきました。佐藤茂兵衛氏の叔父分にあたる方です。大石田町に医院を開業すると共に、多くの英才を養成して医学報国を志し、学資を出して養成した若い医者たちのために、山形市香澄町に至誠堂病院を建て、彼等の独立のために資し、併せて医学報国を実践しました。彼は養成した若い学徒がそれぞれ立派な医者になったことを見届けると、医業は彼等にゆずり、すっぱりと医者をやめ、佐藤家(銀山温泉発電所の経営者)の事業を助け、同家の経営するすべての会社の専務取締役として縦横の手腕をふるいました。温泉の開発に佐藤氏と共にあらゆる協力を惜しまなかった方です。 |